住職の祖母、山崎彌生は昨夏より体調が悪化し療養しておりましたが、令和3年10月8日に93歳で逝去しました。葬儀は住職の祖父・正道方丈の意向を第一として、葬儀委員会で10月7日の通夜、8日の葬儀に1周忌法要と合わせてお勤めをいたす運びとなりました。
激動の昭和、平成、そして令和の三時代を生き抜いた女性。その人生に少し触れさせていただきます。
祖母は、お隣長野県・松本市浅間温泉にあった造り酒屋で産まれ、家族と共に朝鮮半島にわたり、そこで育ちました。曾祖父には商才があり成功をおさめ、祖母も不自由のない生活を送ったと伝え聞いております。ほどなく終戦となり、祖母家族は日本に帰って来ました。当時、外地で築いた財産は国に預けなくてはならず、帰国後の生活にはかなり苦労したそうです。
その後、伯父である自元寺26世・秀雄方丈の願いで17歳で自元寺へ。縁あってのちの27世となる正道方丈と結婚し、戦後の厳しい時期を乗り越えてきました。曾祖父の才能は祖母にも受け継がれたようで、自らの子育ての傍ら、保育園も運営しました。子どもを預ける場所も少なかった時代です。私利のためではなく、地域のための園でした。その後も白州町立白州保育所に定年まで勤務、園長もつとめ多くの子どもを送りだしました。
「やよいせんせい」を慕って、お寺に卒園生が訪ねてくることもあったようです。祖母にとっては大人になっても可愛い園児だったようで、父親世代の人も「〇〇ちゃん」と呼ばれ、呼ばれた方も戸惑いながらどこか嬉しそうにしている姿は微笑ましくもありました。
先々代住職と共に長きにわたり寺を守り、寺族としてもご立派に勤められました。代替わり後鳥原の福昌寺に入られてからも、自元寺の行事の際は足を運び御詠歌や総代さんたちの接待などもこなし、田畑にも精を出し、地域の皆さまとも親しく過ごしておりました。情に厚く涙もろく、周りの人々とのご縁を大切にする祖母は、まさしく「お寺のお母さん」そのものです。
戒名は、彌生院自研明覺禅尼(みしょういんじけんみょうがくぜんに)です。
「自研明覺」は永平寺の禅師さまから授かったものです。自元寺と子どもたちを守り育ててきたこと、寺族としてのあり方への教示、それらの願いを込めてお贈りくださったものだと思います。
院号「彌生院、禅尼」は夫である祖父が送ったものです。自元寺のご本尊・阿弥陀さまのご加護を願い、また今を生きる私たちを見守ってほしいとの思いを込めて追贈したのでは、と考えております。祖母の生き様を表したかのような戒名であると感じております。
激動の昭和から三つの時代を駆け抜けた祖母の人生は決して平坦なものではなかったはずです。その時代時代を真摯に生きぬいた祖母が、過去から大切に繋いでくれたご縁を、丁寧に次の世代につないで参ります。