自元寺先々代住職の妻、故 山崎彌生の本葬儀についてお知らせいたします。
令和3年10月8日に93歳で逝去しました祖母の本葬儀を、1周忌法要と合わせてお勤め致します。当日は祖母とご縁のあった沢山のお寺様と共に法要を行う予定です。
また、地域で祖母にご縁のあった皆様とも、ぜひ亡き祖母の事を偲びたく存じます。
【日程詳細】
通夜 10月7日(金)午後5時から
本葬儀 10月8日(土)午前10時から
場所 自元寺本堂
※駐車場の用意はございますが、限りがありますので可能な範囲で乗り合わせ、近隣の方は徒歩にてお越しいただけますと幸いです。
連絡先 0551-35-2245(Fax兼)
9月20日の葬儀委員会で詳細が決まり次第、町内檀信徒の皆様にも詳細をご案内します。
昭和、平成、令和と三つの時代を生き抜いた女性でした。祖母の人生をひも解くと、その人生は決して平坦なものではなかったようです。
祖母は、昭和4年3月31日、現在の韓国南東部で生まれました。祖母の父は朝鮮半島で商いをして成功したため、娘時代は裕福な暮らしをしていたそうです。姉妹ひとりひとりにお手伝いさんがつくほどだったと聞きました。
その後終戦を迎え、女学校卒業し、そのまま17歳で、母方の伯父である26世大仙秀雄(たいせんしゅうゆう)方丈の住職地・自元寺へ迎えられました。
終戦後、日本のほとんどがそうであったように、寺も厳しい時代でした。祖母も例外ではありません、慣れない田畑や果樹、動物の世話、養父である秀雄方丈と共に、様々な苦労をしてきたそうです。22歳のころに、先々代住職の正道方丈との縁談があり「お父さま(秀雄方丈のこと)がよいとおっしゃるなら」と、翌年、正式に秀雄方丈と養子縁組、正道方丈と結婚しました。
ほどなくして長男・秀道が、その4年後には長女・貴志子が誕生、一男一女に恵まれました。先代住職の秀道が生まれた日は凍えるような日だったそうですが、それでも祖母はお産婆さんの食事を用意してお産に臨んだそうです。時代とは言え、その力強さに驚きます。
父が生まれて翌年には白州町になる前の菅原村の保育園に勤務、同年に明星保育園を運営し始めます。このとき1歳の息子も連れてお勤めしていたそうです。その後白州保育所が設置され、初代町長である古屋五郎氏にこれまでの経験を買われ入職。その後保育所所長に任じられ、定年まで勤め上げました。
保育園を退職したのちも夜遅くまで田畑を耕していました。大きなお寺の行事の際、檀家さんの女性陣とともに料理を作ったり、お寿司をつけていたりした姿が印象に残っています。
寺院・田畑も護持しながら、保育所所長も兼任し、真のキャリアウーマンであったと思います。働き者の一言では語れないほど、お寺のため、地域のためにその力を発揮し続けました。
私たち孫の健康も気をかけてくれて、手作りのみそをつけたおにぎり、自宅で漬けた沢庵、りんごに牛乳がおやつの定番でした。今でも無性に食べたくなる祖母の味です。
また、祖母は忙しい生活の中でも楽しみを見つけていました。短歌が好きで、町の短歌の会に参加して、節目節目でうたを作っては私たちの成長を喜んでくれていました。
鳥原の福昌寺に移ってからも小さな畑で野菜を作り、檀家さんと庭でおしゃべりすることが楽しみだったようです。認知症が出てきても、「甘酒は?お菓子は買ったか?」とまず檀家さんのことを思う寺族としての姿勢には、本当に頭が下がる想いがいたします。
晩年は千葉の叔母のもとで穏やかに過ごしていましたが、令和3年春ころ、体調を崩し入院、療養。令和3年10月8日、逝去いたしました。
祖母の人生は、お寺のため・地域のためにあったように思います。夫である先々代住職から心より信頼され、地域の人からはお寺のおかあさんとして、園児たちからも「やよい先生」として愛され、多くの人が祖母とご縁を持ってくださいました。
祖母とご縁のあった皆様と集い、祖母の苦労がありながらも実り多く豊かであった人生を偲んでいただければと思います。